「気持ち悪い」を考察する、哲学かぶれ大学生

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「気持ち悪い」は環境から宙ぶらりん=浮いている状態なのではないか

「気持ち悪い」という言葉はとてつもない攻撃力を持つにも関わらず、言っている側が正義のように見える世にも恐ろしい言葉である。

最近は自身に対して「気持ち悪い」と思うことが多々あり、その状態を乗り越えようと「勉強の哲学」を読みながら考えている。

ここで問題になってくるのは、なんで他者や自分に対して「気持ち悪い」と感じるのだろうかということだ。

そして、その仮設が冒頭に述べた環境から宙ぶらりんであるということになる。

浮いているとも表現したが、何から浮いていて宙ぶらりんなのか?環境とは何なのか?そのあたりから考察を始めていく。

環境とは、「おおむね想定通りに進むことがわかっている状態」のことではないか

環境とは状態でしかない。その状態は外部刺激内部刺激ともにある程度想定内の範囲に収まるようなものだ。

例えば普段どおりのことをしていて、いきなり劇的な自体に巻き込まれることがあるだろうか?

もちろんいろんな可能性はあるのだが、殆どの場合劇的なことは起こり得ず、いつもどおりのことが繰り返されるであろう。

このことはいいことでもある。将来の予想が立てやすい。いつもどおりが何回も繰り返されれば、同じ環境の先を進む人のようになれるだろうと予想できるからだ。

経験と先人の知恵から起こり得ることがわかっている状態というのは人間にとって認知的ストレスを減らすことができるだろう。

一方で、認知以外のストレスは予定通りにかかると言ってもいい。

今の環境から出ないこととは今後予想される幸も不幸も受け入れますという宣言にほかならない。

気持ち悪さとは環境から引きずり出す、または這い出すときの感覚に近い

今の環境を変える気がない人とは、今の環境を気に入っている人のことである。このまま行けば、最低でも今の段階では現状を肯定できている。そして、行く先はだいたいわかっている。

そんな人にとって、環境の外は魔境である。

なにせ予想がつかない。知識がないのだ。この先どうなっていくかがわからないからだ。

見通しを立てられないことに人間はひどく不安になる。たとえ今の環境から抜け出さなければ不幸が待ち受けているとしても、大抵の人にとって未知の将来より既知の不幸の方を選ぶ人のほうが多い。

愚かと見下すなかれ。一応言い訳は存在する。それは、「わかっていれば対策が立てられる」というものだ。

こう言えば耳障りが良い。しかし、環境というのは敷かれたレールのようなものだ。たとえ対策を立てようとも、レールに穴があいていれば落ちる。

これは当然といえば当然で、先人たちも避けられるなら避けているだろうということだ。

では一つ問をたてよう。

そんなときに電車から降りて歩いていく選択肢を取れますか?

歩いていくと選択したときには、目の前に未知の荒野が立ちふさがるのだ。行く先がわからない。こういうときが原始的な気持ち悪さじゃないかと考える。

逆の時を考えるといい。

外圧によって予定が覆される場合だ。列車で言えば天候が荒れて目的地がわからなくなる。そのときの感情もまた気持ち悪さだろう。

つまり、今の環境からはみ出す、はみ出されるときに気持ち悪さが働く。

予定の整合性が取れなくなったときと言ってもいい。

常に目的地に目的通りにつける人間がいたとすれば、その人は気持ち悪さとは無縁であるだろう。

というよしなしごとである。

まとめ

最近自分自身に気持ち悪さを覚えるのは、列車への不信感から度々列車を降りようとしているからではないか。チキンな自分は降りては乗ってを繰り返しているが。

自分へのエールとして最後に一言。

未知の荒野は未知なのだ。先が天国か地獄かはわからない。天国だといいが、別の地獄も見てみたくはないかね?

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