想像以上に人を差別し、自分を差別していた話

こんなにも自分の根底に差別があるなんて

どうもななめです。更新は久しぶりになりますが、今日からしばらくは平均一日一記事を目標に頑張っていきたいと思います。

 

今回の話題なのですが、中学卒業後なかなか話すことがなかった友達と数年ぶりに話していて気付いたことがもとになってます。

 

彼と話していて感じた”自分と同じぐらいの人間”という感覚。これに違和感を覚えました。

 

そのことを彼に話すと、彼もそれに同意してくれたのです。僕たちにとってこれがなぜ違和感となったのかについて議論していてあることに気づきました。

 

それは僕がほとんどの人を自分より著しく上、もしくは下に見ていたのです。

 

 

自分は差別が少ない人間だと思っていた

 

例えば僕が学校で授業を終えた時のことです。集団で固まってワーワーしている人たちを見て僕は「なんてうるさいやつらなんだ。」と思います。

 

そうすると僕はここまで想像してしまいます。

 

「あんなに頭の悪そうなやつらなんだ。成績も低いに違いない。」といった風に。

 

例えば大学でたまたま知り合った人がいました。その人は台湾からの留学生で中学生の時からフリーランスで働いていて、現在は会社を共同で経営しているといいます

 

。この人を見て僕は「なんてすごいんだろう。」と思います。そうすると僕はこう思います。

 

「こんなにすごい人は僕がどんなに頑張っても追いつかない空の上の人だな」といった風に。

 

友人に性差別の問題に詳しい友達がいてその人の考えを聞いていました。そのため平均的な日本人よりは性差別という点では偏見が少ないと思っていました。

 

自分も公平な人間でありたいと願っていました。

 

しかしながら差別自体は僕の中にも存在していたのです。このことを僕はとんでもなく恐ろしく感じました。

 

自分は自分が思っているほど善人ではなかったのです。善良であろうと考えていたのにも関わらず。

 

今の僕にとってさらに大きな問題

この無意識にしていた差別は自身にも牙をむいていました。向上心の減少です。

 

僕の持論なのですが、人は自己実現を目標にしている時に最も努力できるのではないかと思っています。

 

自己実現というのはマズローの欲求段階などで聞いたことがある方もいるかと思います。

 

では、この差別はどのように働くでしょうか。そもそも人を差別した時点で自分と人を比べています。

 

この状態そのものが自己実現とかけ離れています。自己実現は自らのあるべき姿への欲求です。

 

それは人と比べて得るものではなく自身の納得によってこそ達成されるはずです。人と比べている限り永遠にたどり着けないと言っても過言ではないと思います。

 

また、今回僕が持っていた差別意識はモチベーションを下げるのではないかとも思いました。

 

相手を見下しても自分は今の位置にあぐらをかくだけでしょう。相手を見上げても、手の届かない存在として手を伸ばすことをあきらめてしまうでしょう。

 

自分の中のちっぽけな自尊心を守ることぐらいしかできないように思えてならないのです。

 

成長したい僕が今できること

今できることは等身大で相手を見るように心がけることだと思うのです。きっと相手より勝っている勝っていないではないのです。

 

ある集団がうるさく感じるのは、僕にないものを持っている方たちに対する自尊心の防衛本能なのです。”楽しそうにしている、自分にはないから否定しろ”といった風に。

 

ある人がとてつもなく感じるのは、その人の積み重ねがあるからです。一つ一つのことはきっと僕でもできることなのです。

 

自分の中に確かな価値観の物差しを持って、正確な大きさを測りたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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